<長編プロフィール>自己紹介

おじいちゃん、
おばあちゃんが2人に、
父母、妹と私の
大家族で育ちました。

母が自営業で
「お好み焼き屋」をしていて
色んな人が出入りする
にぎやかな家でした。

私は小さい頃から
片付けが苦手だったようで、
おばあちゃんに
「そんな子はおもちゃを捨てちゃうぞ」と
ままごとのお皿を
窓から外に投げられて
窓の前が道路になっていたので
見事に車にひかれて
粉々になって泣いたのを
今だに覚えています。

母からも妹は片付けできるのに
なんであんただけ
そんなにできないんだろうねと
不思議がられていました。

そうだよね。
なんで私はこんなんなんだろう。
「私だってきれいずきになりたいよ」と
ため息が出ていました。

そして祖母の口癖
「不平、不満、愚痴、不足は言わない。」
それが我が家のルールでした。
ついでに、暑い、寒い、疲れた、
男の子っぽい言葉も禁止。
女の子は、むすっとした態度、
表情をするのもだめで、

はじめは窮屈でしたが、
そういった言葉を抑えているうちに
どうしたら楽に過ごせるのかと
「もう暑いとか思わない方が楽だな」と
感覚を感じないようにしている自分にも
後々気づくことになります。

家では、祖父と父が
何か気にいらないとすぐ大きい声を出す
荒々しい、短期なところがあり、
土日になると耳にストレスのかかる
声が聞こえてきて
心がずしーんと重くなって
いつも憂鬱でした。

子どもなりに仲良くしてほしくて
何かを言った時に
祖母に上からぴしゃりと言われ、
もう言うのはよそうと

それからは怒鳴り声が聞こえてきても
反応しないように、紛らすように
妹と遊ぶか、黙って
時が過ぎるのを待つしかありませんでした。

保育園の頃から
男の子より背が高く
それが悩みでした。

もし、家族をお花に例えるとしたら
色鮮やかなお花たちのよう。

鮮度のある
「喜・怒・哀・楽」の感情が
個性豊かに美しく
咲き乱れているかのような
そんな家庭の中で育ちました。

私の「情熱」の原点は
ここにあると思っています。

ですが、
当時の私にとっては
大人たちの勢いのある感情に
しばしば圧倒されて

胸がきゅーっと縮まるような息苦しさ、
ずーんと心に重りが沈むような感じなど
敏感に感じていました。

バランスを取るかのように
本を読んだり
絵を描くことで
自分の世界に没頭し、
その中で心を自由に
解放させてきたように思います。



思えば「お花」が
いつもそばにいてくれました。

祖母の趣味で、
自宅に「茶道」と「いけばな」の
先生や生徒さん方が出入りしている
環境でしたので、

4,5才の頃から
「いけばな」で余った切れ端をもらって
器に飾って遊んでいました。

夏休みの宿題は
姉妹で「植物採集」に打ち込み、
「植物採集クラブ」に参加。

顧問の先生が見せてくれた
外国の植物画の本が
強く印象に残っています。

ドキドキしながら、
目をきらめかせていました。

この頃から「お花」への興味が
ぐんぐん湧き出していました。

 


自分の気持ちを抑えて
人と衝突することも避け、
もの静かな女の子でした。

周囲から「まじめ」
「ちゃんとしてる」イメージを
付けられているように感じました。

 

 

本当は「ズボラ」なところや
「ドジ」なところもあるのに、

それを隠して優等生ぶったり。

そこをはずれたら、
失望されるにちがいない。
そう思うと苦しくなりました。

期待してくれた人の
がっかりされた顔を見るのがこわくて、
頑張ってきてしまった気がします。

でも、今それは
自分の勝手な思い込みだったなと思います。

もしかしたら、はんたいに
「そんな一面もあったんだね」と
喜んでくれたかもしれないのに。

家族にも先生にも
クラスメイトにも友達にも
友達のお母さんにも

わたしの固定の色を決めて
イメージを崩さないようにしてきたのは、

私自身だったんだなと感じています。

幼少期からそんな風に自分に
プレッシャーをかけ続けてきたので、
身も心もガチガチに。

ものづくりに興味があって
何かこの力を活かせないかと
高校時代から学科と実技試験を
しっかり準備して入学した浜松の芸大。

在学中、隙間なくフルに
頑張り続けてきたことが原因で
大学生活の最後に崩壊しました。

茎がぽっきっと折れたように
心身のバランスを

完全に崩してしまったのです。

自分を粗末にしてきたこと。
自分の気持ちに耳を傾けなかったこと。
「もっともっと、まだ全然だめ」と
追い込んできたことを悔やみました。

何より、デザインが好きな気持ちは本物ですが、
いつしか、誰かのためではなく、
「自分の力を見せつけたい」
「すごくなりたい」

その割合が多くなっていってしまった。
そのために技術を磨くのは
やはり一人よがりになってしまい、
どこかで止まってしまう。

また、家族とはなれるために
家を出たこと。
それは自立ではないですよね。

長い時間と情熱をかけて勉強して
夢を膨らませてきた
グラフィックデザインの世界。

神経をすり減らしながら
何とか進んできた道は、

仲間たちが
まさにこれから羽ばたくという時、
私は目前にして
断念せざるを得なくなりました。

当時、お付き合いしていた人とも
さよならしました。

そんなことがあり
体も心も抜け殻になって

浜松から地元へ戻ることになりました。

休んで、少し元気を取り戻してくると
こんな私のようにならないように、
もし渦中にいる人がいたら、
何かできないかという気持ちが
芽生えていました。

ですが、何かことばを書いたり
実際には何もできないままでした。

 

 


ずっと忘れていた「お花」という存在。

しばらく休んだ後、
買い物に行った時に
たまたま募集の案内が目がとまった
花屋さんに
勤めさせて頂きました。

ここから流れが変化していきました。

お花屋さんに足を踏み入れると
植物から発せられる
細かなミストが空間いっぱいに
充満しているような感じで

仕事しながら
体が癒されていくのがわかりました。

こちらで
アレンジメントの作り方、
鉢物の世話、ラッピング方法、
現場で必要な様々なことを
教えていただきました。

花束など注文品をお渡しするときに
表情がぱあっと明るくなって
喜ばれるのが
心の底から嬉しかったんです。

色々な先輩の作られているところを
見て学び、

7年程勤めてから花屋さんを去り、
結婚後、お花が嫌だったわけではないですが
興味から全然ちがうこともやってみようと
一度 薬局に勤めていましたが、
やっぱりちがうとなりました。

やっぱり「お花」だと確信になり、

「自分でやってみたら?」と
お花の先輩のひと声で、思い切って
「自分で表現するお花の道」
「ハンドメイドの世界」に飛び込みました。

花屋さんのお花の中で作るお花と
自分でどんなお花を仕入れて作るのか
いざ作ろうとしても
自分の作品ってなんだろう
その連続でした。

「花かんむり」という名前をつけました。

いかにして、
「個性」「自分の世界」を
出していくか
私にしか作れないものとは?

職人のような自問自答の日々。
マルシェでのお客さんとの対応。
少しずつ、「花かんむり」の名前と
お花の雰囲気、顔を覚えてもらいました。

出張ワークショップを積極的に
行っていました。

この頃は、まだ自分の気持ちのくせがあって
「助けてもらっちゃいけない。」
ひとりでやっている意識が強く
頼れない、頑張らなきゃという気持ちが強かったですが

仲間との経験で自分のふがいなさ
学ばせて頂いた部分がとても多かったです。

委託販売、作家仲間とのお店
モノづくりにかけてきた情熱
お世話になった方々は

失敗もたくさん経験して
迷惑をかけたこともありました。
体当たりでぶつかってきた
もうひとつの「青春」です。

 

カメラにはご縁があって、

はじめてのカメラは
高校生の頃、
美術部の友人とカメラを持って散歩したのがきっかけで
熱中しすぎて、
禁止令が出そうになりました。

大学でもカメラ部に入ったり、
普通のカメラから、デジカメから、
携帯の写真から
色々なもので撮ってきました。

今思うと、ブティックでも
洋服の写真を撮影し、楽天に掲載する仕事もしていました。

また、お花を撮る講座を開くまでになるとは
私自身も驚きです。

 

 

一人でお花をやっていると、
技術に手詰まり
壁が出てきました。

お花の教室をするのに、
資格はなくてもできるのですが、

学んだ中で、
私のフィルターに通して
また新たなことができるのではないかと
学ぶことにしました。

ですが、なかなか師となる方が
見つからず出会えず、
お花の仕事を続けていました。

 

「土」それは
家族や過去です。

お花をやっている時も
もうデザインのことは忘れようとしてきました。
以前は、過去が重荷になっていました。

ここ残りがいっぱいで、
夢はもう途絶えたと

花かんむりの中に
デザインは生きつづけています。
過去が応援してくれている
夢は途絶えたわけではなし
お花と一緒に育って続いていく
そう強く感じるようになりました。

そう思ったらもう重荷ではなく、
むしろ大事ななくては
ならない土になりました。

ずっと根底にお花があったこと。
私が伝えられることをお花を通して
伝えていきます。

 

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